春に続いての和歌企画!
秋の気配漂う草の上で、秋の草花に囲まれて、『後撰和歌集』の立秋歌群を読みました。
現代と違って平安時代では、七夕は立秋の儀式です。
夏の激しい命の燃焼が終わってゆく秋は、平安時代一つの季節の区切りを意味していました。
人々は川で禊をし、様々な衣を外に干し、織姫と彦星に捧げました。
今回その平安時代の儀式をアートに蘇らせようと、
配布した衣に、子供たちがデコレーションをして持ってきてくれました。
自然の風物を歌や衣に織り込む平安時代の美意識を感じてもらうため、
秋の野の花や草草を摘んで衣につけてファッションショーをしました。
花を摘む子供たちのかわいいこと(>_<)くーとなってしまいました。
また恋の和歌や無常を感じる和歌を詠み、コイバナに花を咲かせたり笑!
哀しみやその乗り越え方などの深い話になったり、
メンバーの意外な一面に笑ったり、驚いたり、感動したり、
くだらないことから真面目なことまで話せた会でした。
それも千年の昔、人々の哀しみや喜びをふんだんに歌った和歌たちが、
豊かで深い心で私たちの想いを受け止めてくれたからだなあと言葉が心を開放する力を感じました。
さて、ここで『後撰和歌集』立秋歌群について少し紹介します。
平安時代に編まれた八代集の七夕歌群を追ってゆくと、
その中で特異な性質を持つ『後撰和歌集』の特徴が浮かび上がります。
情熱的な『後撰和歌集』では七夕の二星になぞらえて、歌人はうんと情熱的で躍動的な恋の和歌を詠み、
ほとばしる感情は涙の川となって溢れ動きます。しかし、そこに虫の音と伴に訪れる恋の終わり、
夏に燃え盛った生命の輝きの終わりが訪れます。
『後撰和歌集』とほぼ同時期に作られた『大和物語・天の川』では、
恋に破れたと思い込んだ女が黒髪を落とし尼になる様が描かれ、
あまのがわには尼の川や涙の川、また女性の長い黒髪のモチーフが含まれ、
ミレーの『オフェーリア』の絵のように、若い女性の川への投身のイメージも抱いています。
また『後撰和歌集』立秋歌群には『伊勢物語四十五段』の業平の和歌
ゆく蛍雲のうへまていぬへくは秋風ふくと雁につけこせ
が配置されています。
これは業平に恋し、想いを告げることなく亡くなった女性を想って業平が読む歌です。
この和歌から後は主観的な和歌から、客観的で物悲しいひぐらしや虫の音の和歌に変化してゆきます。
『後撰和歌集』では、主観的に情熱的に生きることがやがて、
その後の恋の終わりから無常への眼差しを抱くという、ある種の無常観や哲学が示されます。
しかし、その悲しみがやがて、「風寒み鳴く秋虫の涙こそ草葉色どる露と置くらめ」
の和歌に見られるように、自然を美しく彩り
「松の音に風のしらべをまかせては竜田姫こそ秋はひくらし」という、
紅葉を司る女神の悠久のイメージを変容します。
懊悩した人間こそが、神となり、慈しみを降り注ぐ存在となる、当時の宗教や哲学を見ることができます。
(ちょっと脱線。しかし、これは懊悩に苦しんだ人間が神となる能に通じるものがありますね。
能には平安の和歌言葉が幾つも出てきます。
和歌集はちょっと前まで日本の芸術の根幹をなすものだったのです。)
日本の無常観は、全てのものが滅び去る無常とは違います。
季節の終わりの後には必ず、生命の萌芽が待っています。
和歌集もまた季節の巡りの中で大きな生命の循環を内含しています。
その大らかな流れが、人々の心をゆりかごのように受け止め、癒してくれるのです。
整然とした美しさを持つ『古今和歌集』と違って、
『後撰和歌集』はちょっとくだけた和歌集として、学者には嫌煙される和歌集ですが、
うんと泣いて笑っていいんだよと、励ましてくれる気がします。